言葉と思考力について

断捨離をして気が付いたことがある。言語関連の本がたくさんあり、捨てられない。語学書言語学専門書、文法書等だ。

 

私は今まで、なぜこれほどまでに「言葉」というものにこだわってきたのだろうか。

大学の専攻を決める際には、英文科志望にも関わらず日本語の小論文テストを受ける選択肢を選んだ。英語以前に母語であるはずの日本語が未熟だというコンプレックスがあったため、それを受験勉強期間に克服しようと考えたからだった。いざ大学に入ると、英語の先生に「あなたは帰国子女ですか」と聞かれた。違うとこたえると、「日本語が何だか変だから」と言われた。

昭和の沖縄に生まれた私はいつしか、舌足らずな日本語しか話せないという劣等感を抱き、言いたいことがうまく伝えられない表現力のなさに悩まされ、人前では恥をかくことを恐れて口をつぐんでしまう癖がついてしまった。年齢とともに、自己肯定感の低い人間であったことを自覚し、受け止めることで楽になった。

一方で、表現力という表層の問題でないことにも気が付いた。幼少期から青年期にかけて、物事を論理的に考える思考力を培う訓練が足りなかったのではないか。何かについて自己あるいは他人と深く議論し、考えるという経験があまりにも少なかった。

 

家庭や学校などの教育現場では、ただ素直に大人の言うことを聞き鵜呑みにしてしまう「良い子」を育てるのでなく、「どうして?なんでだろう」と問いかける批判的思考を育む必要がある。また、そうした土台があってはじめて思考力と言語運用能力の相乗的な向上につながるのではないか。

良質の情報を大量に入力し、議論し、考え抜き、その成果物を出力する。語学とはこの繰り返しだ。終わりなき、飽くなき冒険はこれからも続く。