授業フィードバック:英文学の果実をかじり、味わいつつ。

  サラマンカ大学英語科4年目にして、ようやく英文学を楽しめるようになりつつある、というよりも喜びが苦痛を上回った、という方が正確か。そりゃいくらなんでもエンジンかかるのが遅すぎなのは?というご批判もありかと自覚の上で。

  Olga Barrios 女史が講師を務める「20世紀北米演劇」及び「植民地後英語文学」の授業が始まって以来早一ヶ月が経った中、今までにない充実感を感じている。この感覚が冷めてしまう前に、いつかこの喜びを忘れてしまうことがあったらまた思い出せるように、書き留めておこうとおもう。

  授業の大枠としては、まず、毎週いくつかの文献を読みそれにまつわる課題を提出するという事前段階を踏み、授業時間は主にプレゼン、学生同士の意見交換や討論に徹する。講師からの一方的なインプットのみに始終する本学科の一般的スタイルに飽き果てた学生達が、午後16時から19時までの3時間、覇気旺盛にモチベーション高く自由に意見する。

  普段の授業では時に質問することはあっても自ら積極的に発言することのない私は、初めのうちどぎまぎしっぱなし。というのも、「(意見を聞かれるの)待ってました」と言わんばかりに四方八方から早口で明快な意見が飛び交う中、スピーディーな運びについていくのが精一杯。言いたいことはあるが、タイミングがつかめない。さらに、唯一の東洋学生で久々の発言に声が上ずりでもしたら・・・みたいな自意識過剰も邪魔していた。

  数日この状態が続きながらも、自分の中では葛藤があった。声なんか上ずろうがなかろうがどうでもいいことじゃない。自分で思っているほど他人は気にしていないかもしれない。それよりも今このチャンスをみすみす逃すことのほうが馬鹿げてる。行動の結果失敗に終わるほうが断然成長に繋がるし・・・などなど、とにかくこんな些細なことをよくもまぁここまで自問自答しちゃって、我ながら(表現は乱暴だが)「くそまじめ」だなぁと半分あきれる具合だが、要は、そうすることで吹っ切れたのも確かだ。

  その結果、今日の授業では植民地後アフリカ文学という焦点から、Ama Ata Aidoo氏のAnowaという作品について討論し、自分なりの解釈をある程度表現することができ、また他の学生の解釈や論点を共有することができ、新たなる解釈の可能性や見方に気づかされ、グループで取り組むからこその「気づき」のプロセスが楽しくて仕方が無いと思えた。

  今まで、自分は言語学の方を得意分野とし、文学はあんまり、という風に自ら距離を置いてきた節があったのだが、これからはこんな前置き、もうよそうと思う。「苦手だから」というスタンスは無駄なばかりか有害だと身をもって分かった。

  始業時期、学部の教授はたいてい「諸君は言語文学科の学生だから文学書を読むことに苦痛を感じることはないだろうが」・・・という類の前置きをする。通常、最前列でこのフレーズを聞くたびに思わず目を伏せ視線をそらしてきた私。あのぎこちなさ。「苦痛」という言葉が鉛のように重く、痛く心に突き刺ささり、心臓をえぐられた。

  卒業までに、このフレーズが他人事になれば本望だ・・・

  なんて、低レベルの目標をクリアした今日の自分に、とりあえず目をつむって、乾杯。