子供の習い事について考えたこと

コロナ下で運動公園や様々な課外活動施設(スイミングスクール、ダンス・音楽教室等)が閉鎖されている今日。同じ毎日の繰り返し。幼稚園から帰宅後、ご飯を食べて、休憩して、夕方の17時から20時まで外遊び。

そんな毎日に変化をつけたいと思い、仲良しの子が通っている英語教室に我が子を通わせようかと思いはじめた。

すぐに教室を運営している方と連絡を取り色々と情報を提供してもらい、すでに申込書にも記入済み。あとは先方に送るだけ。用意は整っている。

けれど、夫にこのことを話すと反対されたので、まだ決断に至らない。迷っていてもらちが明かないので、ここにその意見をまとめてみようと思う。

 

私の意見

  • だめならやめればいいだけの話。
  • やってみなければ好きかどうかは分からない。
  • 本人は乗り気である。子供に「英語の教室行きたい?」と聞いてみたら、「うん、毎日行きたい!」という返事が返ってきた。子供にやる気があるのなら、させてもいいんじゃないか。ただ、幼児なので、やる気と言ってもその時の気分で答えただけなんだろう。
  • 人気のある英語教室で空きのある時間帯とグループが一つしか残っていない。すぐに申し込まないと空きがなくなるため、早く決断したい。(そういういみでの焦りはあるかもしれない。)

夫の意見

・年齢的にまだ早い。仲良しの子は月齢は近いが1学年上で、学校に通っている年数が違う。

・今すぐではなくて、来年でもいいのではないか。

・今はコロナがあるから、むやみやたらに動かないほうが良い。対策が取れているとはいえ、教室という密閉された空間に複数名幼児がいるという状況は安心できない。何か起こったら後悔先に立たずだ。

・通常のクラスとは違って、子供同士の関係が築けないはず。(各自マスクをかけて、各自の椅子に座って、接触がないようにするスタイルでは、幼児が楽しく遊びながら学ぶというスタイルにはならないのではないか。)

・お試し期間がない。(初日をお試しにすると周りの子たちが落ち着かない、コロナ対策のためできない、という理由からお試し期間は無く、初日から入学扱いになる。)

 

自分の中での葛藤

  • 母親の私自身に何かあせりはないか。
  • 英語スクールに通うことで安易に安心しようとしていないか。
  • 「なぜ英語教室なのか」という疑問をわざわざ抱かなくていい、他人に説明する必要がない、という手っ取り早さが楽である。それがために、思考停止になってはいないか。英語ができれば将来の選択肢が広がるのは当然で、英語を学ばせることに意義はないけれども、やはり「なぜ」という問いかけをせずに周りがやっているからという理由だけで英語を学ばせるのは自分に対する説得力がない。
  • その証拠に、英語以外の選択肢を吟味していない。
  • 新しいことをしなければ刺激がなく退屈で才能が見つけられないという思いがある。しかし、新しいことをしたらしたで、「新しいことをしなければいけない」というようなある種の強迫観念に自分自身が駆られていないか。
  • 子供自身は毎日同じ日常の繰り返しの中で自分なりの発見、遊びを見い出し、刺激を見つけている。つまり、退屈の中から遊びを生み出す想像力を子供自ら培っているともいえる。それを無視して、私が退屈だから子供もそうだろうと決めつけてはいけない。一方的な押し付け、思い込みに過ぎないのかもしれないから。
  • 英語スクールのビデオなどを見ると、相反する印象を抱いてしまう。一方では、充実した教材、集中的に集団で学ぶことで学友ができるといったプラス面。もう一方では、まるで機械的にそこに参加することで安堵して、自ら考える力を鍛える場、批判的な思考力をつけることにはつながっていないのじゃないかということ。
  • Googleで「3歳 習い事 早い」などのキーワードでお悩み相談系の記事やフォーラムを探してみたり、「てぃ先生 習い事」で検索してみたり。いろいろ読んでみたり、アドバイスを求めてみたところで、結局決めるのは自分なのだ。そう思ったら、ブログでこうして自分の考えを整理するほうが近道だと気が付いた。
  • このテーマで討論番組があったら絶対見る。
  • 夫とは口論でなく、討論会ができたらいいのに。互いに論文読んでデータ集めて冷静沈着に話し合うという。大概感情的になるのは私の方なんだが。

言葉と思考力について

断捨離をして気が付いたことがある。言語関連の本がたくさんあり、捨てられない。語学書言語学専門書、文法書等だ。

 

私は今まで、なぜこれほどまでに「言葉」というものにこだわってきたのだろうか。

大学の専攻を決める際には、英文科志望にも関わらず日本語の小論文テストを受ける選択肢を選んだ。英語以前に母語であるはずの日本語が未熟だというコンプレックスがあったため、それを受験勉強期間に克服しようと考えたからだった。いざ大学に入ると、英語の先生に「あなたは帰国子女ですか」と聞かれた。違うとこたえると、「日本語が何だか変だから」と言われた。

昭和の沖縄に生まれた私はいつしか、舌足らずな日本語しか話せないという劣等感を抱き、言いたいことがうまく伝えられない表現力のなさに悩まされ、人前では恥をかくことを恐れて口をつぐんでしまう癖がついてしまった。年齢とともに、自己肯定感の低い人間であったことを自覚し、受け止めることで楽になった。

一方で、表現力という表層の問題でないことにも気が付いた。幼少期から青年期にかけて、物事を論理的に考える思考力を培う訓練が足りなかったのではないか。何かについて自己あるいは他人と深く議論し、考えるという経験があまりにも少なかった。

 

家庭や学校などの教育現場では、ただ素直に大人の言うことを聞き鵜呑みにしてしまう「良い子」を育てるのでなく、「どうして?なんでだろう」と問いかける批判的思考を育む必要がある。また、そうした土台があってはじめて思考力と言語運用能力の相乗的な向上につながるのではないか。

良質の情報を大量に入力し、議論し、考え抜き、その成果物を出力する。語学とはこの繰り返しだ。終わりなき、飽くなき冒険はこれからも続く。

スペインの「新たな日常」

7月3日(金)から12日(日)までの日記。

 

先々週末、夏休みに入ったと思ったらあっという間に一週間が過ぎてしまった。今年も例にならって里帰りをしているのだが、やはりコロナの影響でいつもとは勝手が違う。

・これまでは毎年夏休み、帰郷する度に実家で過ごしていたのだが、今年からは身内での感染を防ぐため、実家ではなく別荘で寝泊まりしている。はじめのうちは何だか変な気もしたが、これはこれで過ごしやすい。夜中にPC作業することが多い私にとっては気兼ねせずにマイペースに過ごせるので楽ではある。

・やはりスペインに10年以上も住んでいると、スキンシップが身に染みているのを実感する。というのも、久しぶりに会うというのに、ハグや頬キスができないのにはどうしても違和感を抱いてしまう。特に身内同士では、ものさみしさを否めない。ということで、「肘タッチ」なるもので気休めをする。その発展形が「遠隔肘タッチ」。「投げキッス」と同じ原理なのだが、鶏のコッココッコと鳴きながら羽ばたく様に、離れた者同士が距離を置いたまま「和気あいあい」と遠隔肘タッチを行う様子をいう。名付けて「鶏タッチ」はいかがなものか。

・家族ごとに食卓を区分分け。別荘で食事をするときは世帯数分の食卓をくっつけないように配置する。取り分け料理には専用のお匙(さじ)かフォークを使う。今までのようにアイスクリームをなめあってはいけない(笑)。

・身内同士の集まりでも飲み食いする時以外はマスクを着けるように心がけている。さて、心がけてはいるものの、数日一緒に過ごしているとやはり気が緩んでくるもので、外したマスクが行方不明になる。この対策としては、やはり「マイ布マスク」を使うのがいいだろう。愛着が沸くし、他の人のマスクとの区別がしやすい。実際、マスクもせずのほほんとしているのに気が付いて、あわててその辺の使い捨てマスクを見つけては、「多分自分のだ」と都合よく解釈して着けること多々あり・・・。「見せかけ」だけは気にしてもね、心の中では「症状ないし、大丈夫っしょ」と油断しているのは私だけではない・・・?

その人の横顔はまっすぐ遠くを見つめていた。

細く落ち着いた声だった。

歯車のように組み合わされた両手は、しかし、かすかながら震えていた。

ダンテの神曲を語るたび、巻き髪がプルプルと揺れていた。

議論が交わされる。目の前を飛び交う言葉の数々。

右向け、左向けと、まるで他人事のように眺めながら、

言葉よりも映像のほうが脳裏に刻まれていく。

 

私の立ち位置とはなんだろうと考える日々。

適材適所ということばが聞こえてくる。

 

「チュロス屋のどでん」

西田幾多郎の「アブセンス・オブ・マインド」を読んで思い出した自分のエピソード。


チュロス屋のどでん」


ある朝、チュロス屋さんで注文が出来上がるのを待っていた。
揚油の香り立ち込める小さな店の片隅のテーブル席に腰を掛け、靄がかった通りを横目に小さく縮こまる。
TVニュース、ちぢれるような油のダンス、つまらなさそうに新聞をめくるおじさんの背中。
そこに入ってきた数名の客に「その椅子空いてる?」と聞かれ、とっさに「いえ」っと答える。
連れのために取っておいた椅子だから・・・
しかし、カウンター越しの店主の冷たい目線にハっとなる。
「空いてるわよ、どうぞ使って。」
え、だってこの席は・・・と思ったのもつかの間、
私が縮こまるのに使っていたもう一つの椅子が
どでん!
とそこにあるではないか。
こういうことをいうんだな、
アブセンス・オブ・マインドってのは。

「純粋経験」

西田幾多郎著『善の研究』を読んで、
純粋経験」を理解するために子育てに置き換えてみた。


我が子に見る「純粋経験


蛇口から流れ出る水に手を伸ばし
肌に触れてははじけ散り
枝分かれして落ちゆく流れを
まっすぐな眼で見つめる息子よ

ふくよかな手のひらを 上へ下へとひるがえし
飽くことなく 喜ともせず 驚かず
ただ黙々と 一点に吸い込まれゆく
君の眼よ

主婦、母親って何なんだ・・・。

私は理屈っぽいのかもしれない。いつも考えすぎる。考えばかりが先立ってただ立往生するばかり。
だから、これから書くことも屁理屈なのかもしれない。自分を客観的に見て冷静でありたいとはいつも思うがやっぱりそう簡単ではない。

専業主婦の育児に奮闘する日々はお金にならず、特に誰からも感謝もされず(そりゃあ母親としての義務だから当然と言えば当然なんだけども)、「手伝ってくれる」夫に対しては「手伝ってもらって悪いな」というちょっと後ろめたいような肩身が狭い気持ちになってしまう。だったら外で稼いで来いという話になるわけで、考えてみると、もし共働きでお手伝いさん雇うとしたら、私の日々の働きは一体いくらくらいのお給料に相当するのだろう。休日無し、祝日なし、朝昼晩夜中も見境いなく、誰も見ていないところで黙々とおしめ替えだの洗濯だの諸々こなす。どこの家庭のお母さんも普通に当然のこととしてこなしていることだから、わざわざここに書く必要もないし、書いていること自体も愚痴っぽくてみっともないことと世間からはきっとみなされるのだろう。

夫は普段から本当によくやってくれている。仕事、家事、育児、すべてに積極的に関り協力してくれる。本当に心の底から有難い。

そんな夫が無邪気に週末が来た、やっと休める〜、と喜んでいる様子を見て、微笑ましい反面、羨ましさにちょっとムカついた私はひねくれ者なのかもしれない。
いや、そうだろう。夜中に寝る暇削って書かずにはいられなくなったからここにはきだめとして書いてみたが、こういう記事は翌朝などにたっぷり睡眠をとってから冷静になって読み返すと後悔するような部類のものなんだな、間違いない。

ブログを書かなくなってもう一年以上過ぎていたなんて、自分でもびっくり。日記はちょこまかと書き貯めてきたのだけど、ブログでの公開はしてなかったんだ。この日記、私以外に読んでくれる人がいるんでしょうか〜疑問。まあでもマイペースにまた書き始めようかなと思ってます。

ところで、この一年間でいろいろと変化はありましたが、一番の大きな変化は子供ができたこと。子育て真っ最中。みんなから調子はどうかとか、子育ては順調かとかいろいろと声をかけてもらいます。その度にうまくいってると笑顔で答えるんですが、総体的にはそうだということで、日々の生活となるとやっぱりてんやわんやしてるわけです。出産したその日から生活は一変、やることいっぱいありすぎてあっぷあっぷしてます。

だからこそ、空いた時間にちょっとブログを更新することで息抜きになるかな〜と思って。というわけで、今日からまたブログ再開。楽しみ〜。

La Palma島の山火事

カナリア諸島ラ・パルマ島の山火事。
まだ完全には消火されていないらしい。ドイツ人の男性が使用済みのトイレットペーパーを燃やして処理しようとしたらそこから火が燃え広がり、島の6パーセントを上回る山岳地域が火の車に・・・。自然保護官の男性が死亡したことで過失致死罪に問われているとか。スペインでは当人の逮捕時の映像が放映され、そこまでするかなと少し気の毒になってしまったけれど、確信犯で火事をおこす事件も多々ある中で、本当に間違えたのか放火だったのか、どうなんだろう。

カナリア諸島の夏はサハラ砂漠から乾燥した風(カリマ)ですごく乾燥しているらしく、島だからといって湿度が高いわけじゃないということに気づかされた。それから、火事の火元調査が行われる際に、ガソリンの残痕とかチェンソーで伐採された木の断片などから放火かどうかを判断するらしい。焼け焦げて何も残っていないわけじゃなくて、ちゃんと調査の手がかりが焼け野が原にも残っているんだね。

それにしてもこのドイツ人のお兄さん、自国紙でも「ドイツ人の大馬鹿野郎が犯人」と報道されたとか。「悪気は無かった」なんて言えない事態を引き起こしてしまった後で、自首。放火した山火事をバックに笑顔で記念写真を撮る様な浅はかな人間もいることを考えると、自首したってことは相当な勇気が要ったと思うんだ。ってことはやっぱり放火魔ではないと思いたい…。とはいえ結果的に深刻な被害を起こしたんだからそれに対する罪を購わなきゃいけない…。

当の山岳地帯に生えている松の種類はとても頑丈らしく、表皮の部分だけが焼けたり、焼け跡に既に新芽が出ているということも珍しくないらしい。松の生命力に驚きだ。