アロンソ・カリオ・デ・ラ・バンデラの旅行記


Lazarillo de Ciegos Caminantes desde Buenos Aires hasta Lima (ラサリージョ・デ・シエゴス・カミナンテス・デスデ・ブエノスアイレス・アスタ・リマ)。
(正式な邦題は見つからないため、おそまつながら試訳するならば『盲人のお供ラサリージョ -ブエノスアイレスからリマまでの旅-』とでもなりましょうか。)
 ペルーのリマにて1775年から1776年初頭頃に出版されたこの作品は、18世紀イスパノアメリカ文学で最も傑出する作品の一つで、ペルーやアルゼンチンでは啓蒙文学の典型として知られている。
 著者はAlonso Carrio de la Vandera(又はLavandera)であることが既に証明されているが、作品中では著書として別人の名前が使われているため、多くの研究者らがその著者解明に研究を尽くした。
研究者名:

  • W.Bose-Jose J. Real Diaz
  • J.L.Perez Castro
  • Bataillon
  • Vargas Ugarte y Carilla

●著者の生い立ちと歩み●

  • 1746年 (31歳)ペルー副王国の首都リマへ移住。Felipe Barba de Cabrera(フェリペ・バルバ・デ・カブレラ)氏より経済支援を受ける。
  • 1748年(33歳)チリへ船旅。Valparaiso (バル・パライソ)とSantiago(サンティアゴ)を訪問。
  • 1749年(34歳)パンパ横断。リオ・デ・プラタ地域、ブエノス・アイレスを訪問。
  • 1750年(35歳)再びリマへ移住。リマ出身のPetronila Matute y Melgarejo(ペトロニラ・マトゥテ・イ・メルガレホ)嬢と結婚。彼女の親戚でChilques y Masques(チルケス・イ・マスケス)県(クスコ近辺)の王室代理官(corregidor de la provincia)であったPablo de Vargas(パブロ・デ・バルガス)氏の辞任により、1750年から1757年にかけて7年間代官職を務める他、複数の重要職に就く(Lugarteniente del capitan general、Alcalde mayor de Minas、Subdelegado de Bienes de Difuntosなど)。
  • 1762年から1763年(47〜48歳)にかけて、ペルー副王(virrey de Peru)Manuel de Amat(マヌエル・デ・アマット)により英国の領土侵略を防ぐ目的で召集された騎士団に志願する。当時、スペインと英国間は戦争状態にあった。
  • 1764年(49歳)スペイン王国とインド諸島間の航海郵便制度(Correos Maritimos con las Indias)開始。ラ・コルーニャに中心港が置かれる。
  • 1767年(52歳)スペイン王カルロス三世イエズス会士追放令を公布、アメリカ大陸領土からイエズス会が追放される(Expulsion de los jesuitas)。チリとペルーにおける181人のキリスト教徒がカジャオ港にて兵役志願し、スペイン軍艦El Peruano(エル・ペルアーノ)にてヨーロッパへ送還される。この時、作品の著者アロンソ氏はこれらキリスト教徒の送還を指揮することを名乗り出て、Valparaiso(バル・パライソ)からスペインへの船路を決意する。
  • 1768年(53歳)バジャドリード高等法院における裁判(Juicio de hidalguia en la Chancilleria de Valladorid)。
  • 1768年(53歳)カディス港到着、イエズス会士送還後、宮廷へ赴き報償を要求。Manuel de Roda y Arrieta(マヌエル・デ・ロダ・イ・アリエタ)氏の奨励と推薦を受け、チリのアリカ(Arica)スペイン王室代理官に候補。その他数名の支持を受けるも任命されず、ウアマンガ(Huamanga)地方の職務にもつけずに終わる。そのため、これまでの奉公に関する報告書を作成し各審議会(Consejos)に配布したが、この文書は現在残っていない。
  • 1770年(55歳)ワロチリ地区の公職にも就けず。
  • 1771年(56歳)1月頃にはLa Coruna(ラ・コルーニャ)からトゥクマン王室郵便へ移り、同年5月11日モンテ・ビデオに到着。Grimaldi(グリマルディ)侯爵よりリマとブエノス・アイレス間の視察官に任命され、郵便システムの改善と調整を行う(9〜10月)。同年11月再びリマへ出発。同月末頃、原住民であるCalixto Bustamante Carlosカリスト・ブスタマンンテ・カルロス)氏がアロンソ氏の秘書としてコルドバにて合流。彼こそがLazarilloにおける作品上の著書とされる人物である。そこでアロンソ氏がペルー本国送還した人々が乗るオリフラマ号(el navio Oriflama)の難破ニュースを受けた。
  • 1775年(60歳)から1776年頃、リマにおいて本作品Lazarillo de ciegos caminantesが編集・出版される。なぜか1771年にGijon(ヒホン)で出版されたという記述された事実は後の研究によって虚偽のものと判明された。
  • 1777年(62歳)郵便局リマ支部会計監査役
  • 1778年(63歳)フロリダブランカ氏はアロンソ氏に辞任を勧める。
  • 1781年(66歳)妻ペトロニラの死去。
  • 1783年(68歳)リマにて死去。

ペンネーム●

  • ペンネーム:Concolorcorvo (コンコロルコルボ)。本作品中ではアロンソ・カリオ氏の写字生であるカリスト・ブスタマンテ氏が著者とされており、そのペンネームとして使用されている。

●作品について●

  • 旅行記、旅行ガイドブック
  • 詳細な風景描写、人物描写、町並み、旅先の社会情勢や経済情勢など、当時の人々の暮らしについての情報をユーモアと表現豊かに綴っている。
  • ユーモアと観察力に優れている。
  • 作品の導入部ではスペインのピカレスク小説Lazarillo de Tormes (ラサリージョ・デ・トルメス)の影響が確実に見受けられる。
  • スペイン植民地政策に関する利点と理不尽さを浮き彫りにしようとする試み。

●参考資料とリンク●