「私の一番伝えたいメッセージ、それは『戦い続ける』こと。」

  本日、サラマンカ大学文献学部の大講堂(Aula Magna)で、Luis Garcia Jambrina(ルイス・ガルシア・ハンブリナ)教授の主催する詩の朗読会の一環として、スペイン女性詩人Almudena Guzman(アルムデナ・グスマン)氏が来訪し朗読及び講演会が開催された。

  アルムデナ氏は1964年マドリッド生まれ。若干15歳でデビュー作の『リダ・サルの詩(Poemas de Lida Sal)』が出版されるも、詩を書き始めたのは実に6歳の頃だったという。1984年の作品『忘却のビーチ(Playa del Olvido)』からわずか2年後の1986年、高校教師との禁断の愛を主人公である女学生の視点から描いたことで話題と反響を呼んだ作品『あなた(Usted)』(イペリオン(Hiperion)出版)がイペリオン文学賞を受賞。

  それまでのスペイン文壇において活躍した女性詩人は数少なく、例えばカトリックカルメル会修道女として生涯を文学と信仰に捧げた16世紀初期の女性詩人聖女テレサ(Santa Teresa de Jesus)や、19世紀初期のロサリア・デ・カストロ(Rosalia de Castro)が代表的な人物として挙げられるものの、20世紀後半にスペイン文学史上初めて女性詩人として大々的に脚光を浴びたのがアルムデナ・グスマン氏なのだ。

  全ての作品において一貫した彼女の特徴といえば、常に日常的でシンプルな言葉使いと豊かな感情表現。あくまでも自然体を意識した言葉使いと一見平凡とも言えるシチュエーションの中で、愛情や嫉妬、青春や官能の世界を描いたこのヒット作は、フランコ独裁政権から逸脱し民主政治と経済成長の道のりを歩みつつあった当時のスペイン社会において、幅広い層の読者(特に女性読者)を釘付けにした事実は想像に易いだろう。

  ちなみに、先ほど本作品の紹介にあたって「禁断の」といういわば生徒と教師の恋を修飾するのにお決まりの形容詞を用いてしまったが、この言葉から連想されるようなドラマチックな感情の泥沼といった印象や重たさはまずなく、伝統的な感傷主義(Sentimentalismo)や憂鬱(Melancolismo)にも決して陥らない、さらに過去にも縛られない、というような女学生のさらりとした感覚が読者にとっては新鮮であったようだ。

  その後1989年に発表された『タマールの本(El Libro de Tamar)』(マドリード・イペリオン出版)は主人公の少年タマールと友人ダニエル(Daniel)の特殊な友情を描いた作品で、グスマン氏はこの本について

「今となっては感情移入の激しさに共感できませんが、まぁ出来は悪くても私の息子であることに変りありませんからね(Aunque sea tonto, sigue siendo mi hijo)」

とユーモア交じりに語った。

  この本のプロローグを記したサモラ出身の著名な詩人クラウディオ・ロドリゲス(Claudio Rodriguez)氏はアルムデナ氏の詩を大変評価されていたらしく、当時から友好関係にあったハンブリナ教授(本日の講演会の主催者)にこの作品を読むように薦めたのだとか。この点について教授は、「いやぁ、実はここだけの話なんですがね、私があなたの詩を読み始めたのもクラウディオのプロローグがきっかけなんでして・・・」と少しはにかみながら語っていらして、それをグスマン氏が「え、そういうことだったのぉ〜」なんて合いの手を入れるという、心の置ける詩人同士ならではの頬ましいやりとりが交わされ、ほぼ満員の会場も笑いに包まれた。

  さらに2年後の2001年には、時の経過とともに移り行く愛について描いた詩集『カレンダー(Calendario)』(同出版社)が発表され、この作品をもって「無垢な愛情」(グスマン氏は「白き愛情(amor blanco)」という表現をされていた)をテーマにした作品にひとまず終止符が打たれる。

  グスマン氏は2005年に発表された『赤い王子様(El Principe Rojo)』について、まず、

「これは詩人として新しい局面へと向かう、いわば移行期(transicion)の作品として私は位置づけています」

と述べた後、主なテーマである『復讐と憎しみ』については、

「復讐や憎しみは決して愛情と相反するものではなく、愛情の一面であり、表裏一体のものだというふうに思います。伝統的にはモラル上「正しくない」とされてきた否定的な感情は、それ自体が悪ではありません。ですからこのようなマイナスの感情にだって言葉を与えられ詩という形で表現される権利があると思うのです(笑)。ただ、自らそのような感情を生み出しそれをむき出しにすればそれは問題ですが。そうした一切合切の陰の感情を体現するフィクションの人物、それが「赤い王子」です。」

と述べていた。つまり、マイナスの感情を象徴した「赤い王子」はあくまでも「王子」なのであり、西洋で理想的な男性像の象徴とされる「青い王子」の「青」にこめられた(貴公子、紳士、優しさ、優雅さなどの)甘いイメージを文字ったもので、風刺のこもったタイトルが当作品の全体像を物語っている。ここで氏は、

「こんなことを言うと、私という詩人はおかしな人間だと思われる方もあるかもしれません。」

と前置きをした後、自らの詩の創造プロセスについて語る。

「実は、私はまずすべての作品において最初にタイトルが思いつき、それから本の全体像が浮かび上がるんですね。ですから、タイトルに関しては、何といいましょうかその、インスピレーションを受けるんですね。さらに私は自称デカルトタイプ(Cartesiana)のもの書きですから、残りは熟考に熟考を重ねて、まるで建築家が年月をかけて建物をデザインするように、構成を考えたり言葉をえらんだりするんです。ということは、頭の中では既に印象として出来上がったものを形にするのに、時には数年かかることもあります。そのかわり、一度書いたことは二度と書こうとは思いません。既に書いたものを再び書くことに意味はありませんから。こうした発想の結果として、単発的なものではなく、全体として一貫性のある複数の詩がもともと念頭にあります。つまり私は『詩』を書くというよりも『本』を書くという認識で書き始めるわけです。」

また、プライベートの読書に関しては、

「普段は詩よりも小説のほうを好んで嗜みます。時には小説を書いてみようかと思い立ち、原稿に向かうこともありましたが、私はどうも小説には向いていないようです。というのも、物語のアイディアが浮かんできても、それを短文のうちに全て凝縮して表現してしまうので、長い文章になりません(笑)。散文のように、アイディアを事細かに「間延び」させるのはどうも苦手なのでしょう、私にも良く分かりませんが(笑)」

と語り、詩人として生まれ持った才覚を感じさせた。

(以下編集中。)  

  この会でグスマン氏が朗読された詩については、後日追記することにしても、私にとって氏が数々の作品の中で扱っている主要テーマがもう一つあり、氏はそれを常に模索しているように思われてならない。それは何かといえば、「物事の良し悪し」を判断するための基準がもはや現代に生きる私達にとって何かが明確にできないという状況であり、冷たくも熱くもない「ぬるい時代(edad tibia)」に生きているという自意識に焦点を当てている点である。

  2011年の最新作品『共有スペース(Zonas Comunes)』には、現在のスペイン経済危機や失業問題に皮肉な意味での先駆けともいえるような作者自身の体験が詩につづられている。詩人の傍らABC新聞社の記者として働いていたグスマン氏は、一時的解雇処分を受けた(スペイン語ではExpediente de Regulacion de Empleo、略してエレ(ERE)という)。この処分決定が宣言され執行されるまでに数ヶ月かかったというが、処分が自分の身に下されることを予期した社員の心境が一体どんなものであったか、その辛さや苦しみというものを、氏は身をもって体験したという。

  この弱肉強食の時代に、「勝ち組(Triunfador)」か「負け組み(Perdedor)」かの二極単化が進み、前者になることばかりに重きが置かれる一方で、人を人たらしめる理性、倫理、思いやり、感受性、そういったものは踏みにじられ、不要とされる。そんな現代社会に対する強い批判が最後の作品にはこめられている。

  そしてグスマン氏は言う。

「私は何も虚無主義(Nihilismo)に走っているのではありません。絶望感ばかりを強調するわけでもありません。私が何よりも言いたいことは、「諦めてはいけない」ということです。「戦い続ける」しかありません。すべてを世の中のせいにして努力を怠ってはいけない。宇宙において、人間というのはこの指先にも取るに足らない存在なんです。コペルニクスも説いたように、人間はこの大宇宙の中軸でもなんでもない。小さな存在でありながら、奢り高ぶる人間達がこの世界を支配しようとし、弱いものを踏みにじる。こんな社会において、私達は戦いを放棄せず、一緒に戦いつづけなければなりません。」

  本日の講演会を聞いて、私は彼女のこうした強い意志に共鳴を受け、こうした社会批判の代弁者の語る言葉を少しでも広められればという気持ちからこの記事を書こうと思った。

  最後に、最も印象的だったことについて。彼女は決して饒舌とはいえない、時にはとぎれとぎれの、しかし確信を秘めた言葉で、堂々とかつ丁重な話し方で聴衆に語りかけた。少しどもったような話し方で、たどたどしさすら垣間見えた。だが、このたどたどしさに、私は誠意を感じた。雄弁に民衆をたぶらかそうとする偽善的な政治家とも、お金と権力で全てを解決できると考える人間達のふてぶてしさとも違う、敏感さ、思いやり、そういうものがとぎれとぎれの言葉を繋ぎ合わせていた。そして、自分の意思で言葉を選び取り道を切り開こうとする、自然体な詩人の姿がそこにはあったと思う。

  なんて、最後の部分は若干肩肘張りすぎたようだけど。まあ仕方ない。私の理想主義的な面がどうもそういう傾向に走ってしまう。

  以上、アルムデナグスマン氏の詩、お勧めです。後日、Aniko訳にも挑戦してみようかと思います。