雨とアイスコーヒーと女のBGM
「いらっしゃいませ」
窓ガラスからテーブル一つ分だけ離れた席に腰を掛けると、肩からだらりとぶら下げていたバッグを膝の上に乗せ、両手を固く握り締めている。
メニューを持ってテーブルに近づくと、彼女はうつむき加減のまま怯えたように「アイスコーヒー」とつぶやいた。
開きかけたメニューをもう一度カウンターにしまい、私はコーヒーの用意を始める。
高校生ぐらいかな。それにしても、ずい分しなやかで大人びた声。それでいて、どこかしら棘のある、傷ついたような、孤独な声をしている。
無造作にまとめあげられた髪の毛、ブルーのシャツ、そしてほのかに香るアルコールのにおい。
ほかに客はなく、Jazzとラテンの入り混じったBGMがゆるやかな時に溶け込んでゆく。
しばらくして、出されたグラスにはほとんど手をつけぬまま、彼女はふと席を立った。
「お勘定を」
「はい、400円になります」
すると彼女は財布を覗き込み、小銭をまさぐっている。
私はエプロンで手を拭い、カウンターに目をそらして合間をとる。
布巾でカウンターを軽くなでたりしているうちに、ようやく彼女は小銭をいくつか選び出した。
手の平に、百円玉が二枚、五十円玉が一枚、そして五円玉が一枚、肩をすぼめて黙っている。
ふと、入ってきたときから変わらない不安げな彼女の両目が、私の眼の奥を一瞬覗き込み、心なしか黒く光る。
幼さと疲れを同次元に滲ませたその瞳が放つ、悪戯な笑みと鋭い光、そのコントラストに違和感を覚えずにはいられなかった。
「あと、150円足りない・・・ すいません、今銀行行って降ろしてきます、すぐ戻ります。
えぇっと、銀行は、どっちですか。すぐ来ますんで、ごめんなさい」
そう言い放ち、返事を待たずに駆け出した彼女のうしろ姿を私はただただ見送っている。
小雨の沁みる灰色の街へとか細い背中が消えていった。
カウンターへ置き去りにされた四枚の硬貨をつまみあげながら独り言のように思いをめぐらせる。
寛大な店員にでもなりすまして、「お金は結構です」なんてドラマのようなセリフを放ってみてはどうだったかしら。
あるいは、また次同じようなケースに遭遇したら今度は、「最初からそのつもりだったでしょう、この酔っ払い!」なんて癇癪持ちな女を演じても面白そう。
まあ冗談はともかく、少なくとも謝っていたんだから責めちゃかわいそうだし、それよりあなた大丈夫なのって声をかけてあげれば良かった。
彼女、赤面して、今にも泣き出しそうだったわ。
実のところ、うすうす変な予感がしていたんだけどね。
ちっぽけなカフェのウェイトレスをそうそう侮っちゃいけない、いくら私だってそこまで鈍感じゃないわ。
ほらあの子、バッグを肩にかけ直したでしょう。それ見て、なんだか私居たたまれなくなったのよ。
それで、走ってく彼女の姿を見守りたくて、軒先まで出てみたの。
外は雨、彼女の姿はもうなかった。
濡れた体を芯まで冷やすような、鋭く惨めな雨だった。
もう二度と会うことのないあの子は、雨に打たれて破けたその皮を、きっとどこかで舐めて癒すのね。
客のいなくなった店内。
物思いにふける店員が、なにやら書き物をしている。
ある日ある時出逢ってしまった一人の女性のお話。
目の前にはただ、彼女の残していったアイスコーヒーと、神経質にむし消されたタバコの吸殻。歯形のついた残骸。
苦いニコチンの残臭にまぎれて、微かに漂う甘い香水のアロマ。
たった一瞬の出来事がその香りに包まれて、いつまでもそこに漂っている。
冷たい雨音と汗をかいたグラス、そして
名も無い喫茶店の名も無い店員が見知らぬ女の小さな嘘に魅せられた夏の記憶。
ページをめくれば今もあの香りがする。あの音が聞こえてくる。
それはタバコの煙にぼやけた、雨とコーヒーと女のBGM。若き日の酔いをメロディーにのせて・・・