井筒俊彦、イスラーム文化に対する日本的アプローチ

井筒俊彦氏「イスラーム文化―その根底にあるもの―」ワイド社岩波文庫156、第二刷、2001年(第一刷、1994年)。

このを読んでみようと思ったのは、日本の思想史について、とくに明治以降のそれについて考察しようと思ったからだ。

古代からのアニミズム(自然崇拝)としての土着信仰が (「言霊」、「祟り」、という言葉に映し出された日本民族独特の信仰心が)神道と言う民族文化意識として共有されるようになり、さらには外来の宗教である仏教、儒教と関わり合いながら神仏習合という信仰の形が形成されていく。神道天皇の正当性を確立する(奈良時代の中央集権化の)ためのいわば手段として政治と結びつく一方で、仏教は律令制度を確立させ、儒教は人間的倫理観による社会秩序の構築を担った。

予言的宗教 Profhetic Religion ではない、自然発生的アニミズムから発展した自然宗教として、神道が「宗教」としての地位を得ることができたのはなぜなのか。日本的思想とは何か。思想、哲学、宗教、これらを明確に分かつ境界線はあるのだろうか。西洋哲学のように、精神的な世界への科学的なアプローチとしての哲学、そういうものが日本にもあるのだろうか。可能なのだろうか。(ある必要があるのか。)

まぁ、そういった疑問を念頭に置きながら、井筒俊彦氏のイスラーム文化を主題とした本を読みつつも、私としては何よりも、氏が言うところのイスラーム文化に対する日本的なアプローチ(日本のイスラーム学)という視点に特に興味を持って読んでみた。(私が本当に読みたかったのはLanguage and Magic という著書なのだが、入手し難いという理由から、とにかくご本人の言葉でかかれた本であれば何でも良いから読み、彼の言葉でもって描かれた世界観を味わってみたいという理由から最終的に彼の専門分野であるイスラーム文化について書かれたこの本を選んだ。)

この様な観点から本書を読み進め、最終的に私にとって特に印象に残っている箇所、考察し特筆しておきたい箇所が一つ浮き上がってきたので以下に記しておく。

測りがたい神の意志が突然、閃光のようにひらめいて預言者深層意識を言語的に触発する。それがはじめから例えばアラビア語のような人間言語として彼の耳に聞こえてくる場合にはそのまま、そうでない場合はそれを人間言語に翻訳した形で口ばしる。彼の口から断続的に、断片的にほとばしり出る、こういう神的言語が啓示といわれるものであります。この特異な現象を通じて神の意志が言語的に人間に伝わり、それを通じて人間と神とのあいだに一種の人格的つながりが成立するのであります。(57〜58項)

ひらめき、直観、深層意識を言語的に触発するなど、「宗教」以前に、人間なら誰しもが備え持つ言語能力と直観力について言及されている部分である。「神」という言葉に集約される存在がいかなるものであれ、形而上学的実存としての存在との交信が言葉によって行われるということ。

言葉の魔力(言霊)・・・ 「考える、ゆえに我あり Cogito, ergo sum」とデカルトは言った、「考えると思う、ゆえに我ありと思う Cogito cogito, ergo cogito sum」と確かスピノザは言った・・・ がしかし、言語能力なくして考えることはできないのではないか。感覚的に何かを感じることはできても、その強烈な肉体的な感覚を思考の域で表現することはできないのではないか。人間的な言語、という意味で。 結局人間にとってのあらゆる「神」という存在は言葉の産物なのであろうか。


さらに、日本的な視点からのイスラーム文化へのアプローチの必要性については、以下のような言及が見られる。主に序章(「はじめに」)と論末にみられる記述を抜粋する。

[…] イスラームが日本人にとって時局的意義をもっているということ、これはまさしくわれわれの現代的、というよりもむしろ現在的状況です。私がここで特に現在的と申しますのは、つい数年前までわれわれ日本人は、イスラーム圏、あるいは中近東の情勢に対して時局的にもさしたる関心を向けていなかったという実情を頭においてのことであります。十字軍以来、わけても近代の植民地時代を通じて、長い相互的愛憎のしがらみのうちに生きてきた西欧諸国とはこの点で日本は全く違います。(8-9項)

[…] 日本人は日本人の立場から事態を見ますので、今までのように、だいたい西欧の人々の理解したものを間接的に把握するだけでなくていままで誰も気づかなかったようなイスラームの新しい局面まで把握できるということにも、当然なってまいります。 (10項)

[…] (カール・ポッパーの「文化的枠組み」の対立について) 二つの全く違った伝統的文化価値体系の激突によって引き起こされる文化的危機。そのダイナミックな緊迫感の中で、対立する二つの文化(あるいはその一方)は初めて己を他の枠組みの目で批判的に見ることを学ぶのです。そこに思いもかけなかったような視座が生まれ新しい知的地平の展望が開け、それによって自己を超え、相手を超え、さらには自己との相手との対立をも超えて、より高い次元に踏出することも可能になってくる。[…] かつて中国文化との創造的対決を通じて独自の文化を東洋の一角に確立し、さらに西欧文化との創造的な対決を通じて己を近代化することに成功した日本は、いまや中近東と呼ばれる広大なアジア的世界を基盤づけるイスラーム文化にたいして、ふたたび同じような文化的枠組みの対決を迫られる新しい状況に入ろうとしているのではないでしょうか。(16項)

[…] ひるがえって反省してみますと、従来われわれ日本人はイスラームに対してあまりにも無関心でありすぎました、学問的にも、また常識的にも。インド、チベット、中国の研究分野で世界の学問の最高水準を行くと称されるわが国の東洋学は、同じアジアのイスラーム文化圏についてはほとんど白紙の状態です。真に日本的という形容詞をかぶせるに値するようなイスラーム学は全く存在しておりません。日本的仏教学、日本的チベット学等を云々するのと同じ資格、同じ水準で日本的イスラーム学を語ることはできないのです。そして学問がそんな状態であるならば、ましてや一般人の教養としてのイスラーム理解が、西欧の一般知識人のイスラーム理解と比較すべくもないことはむしろ当然でありましょう。(17項)

[…] イスラームとはいったい何なのか、イスラーム教徒(ムスリム)と呼ばれる人たちは何をどう考えているのか、彼らはどういう状況で、何にどう反応するのか、イスラームという文化はいったいどんな本質構造をもっているのか、それをわれわれは的確に捉えなければならないそれが主体的に呑み込めない限りイスラームを含む多元的国際社会なるものを、具体的な形で構想したり、云々したりすることはできないからであります。イスラームという文化の機構が根源的な形で把握されてはじめて、イスラームわれわれ日本人の複数座標的な世界意識の構成要素としてわれわれのうちに創造的に機能することができるようになるでありましょう。(18-19項)

[…] 以上、三回にわたりましてイスラーム文化についてお話いたしました。第一回目の最初にちょっと申しましたが、われわれ日本人は、いままでイスラームについてあまりにも無関心でありすぎたと私は思います。いわゆる世界の地球社会化が急速に進展しつつある現在、東洋と西洋の中間に位置して、重要な世界史的役割を果たしてきた、そして現にいまも果たしつつある、中近東の一大文化、イスラームをわれわれ日本人も、日本人の立場から、日本人独特の見方で積極的に理解するように努めなければならないと思います。(225項)

これまでのように西欧の価値観というフィルターを介したイスラーム解釈ではなく、日本人がイスラームとの直接の文化的関わりから主体的に相手を理解することで、創造的な理解を得、自分自身を高め、対立を超越したつながりをもつことができる、という。つまり、比較研究を通し、文化的危機や対立というものを積極的に考察し、相手と自己を理解することで、自他共に超越し、つながるための「創造的エネルギー」の根源となすこと。井筒氏の著書を読み、多角的な視点を融合した視点を持つという点がまさに日本的な視点であり、井筒氏自身がそれを体現しているのだと思われた。